守破離 / 今、言えない人間

先日、新人研修に登壇した中で、「守破離」の話をしました。

前任者から受け継いだテキストを見たときから、話そうと考えていたことです。

 

テキスト資料の中では、「つまらない仕事ばかり…こんな仕事をしたい訳じゃないのに」と呟くイラストの下に、守破離の説明がありました。

 

守破離 :剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。

     守は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。

     破は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。

     離は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。     

                                       大辞泉より

 

良い言葉です。あらゆるものを「道」と捉え、研鑽を積む段階を示す。

 

この言葉を久しぶりに見て、私が以前学んでいた学問を思い出しました。現在は異なるかもしれませんが、当時、未だ徒弟制的な風習が残るその世界では、「弟子は師匠の学説に対するアンチ・テーゼを生み出してこそ一流」と言われていました。師の近くで学び、その学説の短所も良くわかっているからこそ、師匠筋の学説と異なる(あるいは反対の)学説を打ち立てる。そうやって、アカデミーは発展する。

 

思えば、一般的な知の創造も、そんな「守破離」に通じるものがあるように思います。

 

 

しかし、同時に、私は「守破離」に表現される文化に、若い頃から違和感も感じていました。

 

往々にして、「守」の時間が長すぎる。

 

あらゆるものを「道」にして、謙虚に学ぶのは良いのですが、謙虚に学ぶとは、決してすべてを鵜呑みにすることではないはずです。

 

意見を言わない、違和感を表明しない人々に、自分の意見を求めると、「私はまだ何もわからないので」「もう少し学んでから」と、やけに謙虚そうな言葉が口からでます。それは真に謙虚な姿勢の現れ?自信の無さ?軋轢を生むことへの恐れ?もちろん、高圧的な態度で、自分に反論させないような態度をとる人間も多くおり、それも大問題です。しかし、その背景には、もしかしたら、「未だ何もわからないくせに」という考えがあるのではないでしょうか。その意味で、どちらも似た者同士に過ぎないように思います。

 

前職までは私はよく、「今、言えない人間はこれからも言えないよ」と言っていました。自分が、物事を完全に分かったと思える時など来ることはない。「私はまだ…」と言って、現状を肯定していてもつまらないだろう。改善も改革も変化もしないで良いのだろうか。私の言葉が、どこかで芽を出していてくれたら嬉しいのですが。

 

 

 

試しに、新人研修で、「守」はどのくらいの期間だと思うか、一斉に言ってみて、というと最も大きな声が3年でした。

3年間も「守」!ジョブ・ローテーションをする組織なら異動してるかもしれませんよ。そして、また違う部署で3年の「守」が始まる?いつ、自分の考えを言うの?

 

Challenge ・Changeをスローガンにする組織だったので、「3年間、何も言わないつもり?それでChallenge・Changeになるのか、考えてみてくださいね」、と投げかけてきました。

 

 

このように、何にでも「道」を見つけて昇華させてしまう日本の文化特性が、組織の停滞の一因のように思います。

また、長い下積み時代など軽々と飛び越えて、起業する人間が少ない原因は、こんなところにもあるのかもしれません。

 

久しぶりに「守破離」という言葉を見て、こんなことを思い出し、考えていました。

 

 

 

人材・組織開発コンサルタント

後閑 徹

 


試論:勤勉さを支えるもの  

今朝、鶯の鳴き声で目覚めました。ブラインドを下ろさないで眠るため、日の出が早くなるにつれ自然と目覚めも早くなる春です。

ここ数週間は新年度に向け、慌ただしく準備に追われる毎日です。電話、メールのやり取りが頻繁になります。

 

新年度の初仕事は百数十人を相手の新人研修です。明日、長崎に発ちます。

 

年度末は、次年度の仕事の準備に追われました。

中でも、16日間で3階層をひとりで担当する働き方改革の研修の存在が大きくのしかかってきました。

本を読み、考え、文章を書き、また考え、としていると、ふと「何か」が足らないような気がしてきました。

そして、その「何か」は、私たちが働く場で成果を上げるための「勤勉さ」の根拠である、という思いが強くなりました。

 

 

ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、アジアでも南欧でもなく、西欧で資本主義が発達したひとつの大きな要因として、プロテスタント・カルバン派のいわゆる予定説の考え方がある、と分析します。神が世にその栄光を知らしめるために送られた人間は、それぞれに運命づけられた(予定された)人生がある。神の御心は人智の及ぶところではないが、自分が神から選ばれた人間であるとすれば、神の御心に適う行いをしているはずだ、という考えから禁欲的勤勉さが導かれ、その勤勉さが資本主義の歯車を回した…。

 

脳みそにこびりつている私の知識をざっくりまとめるとこのようになるでしょうか。

 

しかし、宗教の雑居性が特色といわれる私たちの社会では、「勤勉さ」の根拠として宗教的価値は中核におかれてはいないでしょう。

 

では、私たちの「勤勉さ」の根拠は何か。

 

今でも、そこここで垣間見られる集団主義的・全体主義的文化態度でしょうか。宗教的信念にも似た仕事に対する個人的使命感でしょうか(私が前職において過労で倒れた原因は、ここにありました)。あるいは、個人的欲求の充足(乃至は個人利益と組織利益の統合?)に求めるでしょうか。

 

働き方改革では、上記のどれもが組織への「滅私」奉公を強いる点で、好ましいことではありません。

 

とすると、私たちが組織内で働く上での「勤勉さ」の根拠を如何に考えるのか…。

それは多様な人材の労働参加を促す以上、個人、組織の関係性の中に各人がそれぞれに見出していくしかないのではないか、というのが私の考えです(今後、変わるかもしれませんが)。

 

働き方改革は、ワークライフバランス・ダイバーシティの実現と一体となる改革です。

個人の事情を組織における働き方に反映させることを求めたのが、ワークライフバランスであり、ワークライフバランスをとれる職場にすることが、多様な働き方をする多様な働き手の確保(≒減りゆく生産労働人口の補填・市場縮小への対策)に繋がります。

 

とすれば、少なくとも、

ヽ匿佑自ら望む生き方を含めた総体としてのキャリア観をより明確に形成し、表明すること(個人の価値観の形成と主張)

△修譴召譴料反イ砲けるビジョン・ミッション(使命)等の存在意義と方向性の明示(組織の価値観の形成)

この2者の調整を図ること(個人と組織の新たな関係性の構築)

が、それぞれに求められるのではないでしょうか。

 

その意味で、働き方改革が、個人の在り方と組織の文化・風土の変革を伴う大変革であることは間違いないように思います。

この観点をなしにしては、「働き方改革=生産性向上・業務効率化」となり、手段が目的にすり替わってしまう危険があります。

 

※以上は、未整理のままに大雑把に提示した試論です。

 また、ここまで遡ることが求められている訳でもないので、仕事の場で提示するつもりもないことは、付言しておきます。

 

・・・・・・・・・・・・

 

さて、仕事に戻ります。

先ほども、遠回しに進捗確認されるような(?/笑)メールが来たばかり。

しかし、やることが多いと、違うことをしたくなるのが人の性、ということで久しぶりにブログを書いてしまいました。

 

働き方改革を支援する側の働き方改革に着手するのは、しばらく先のことです。

 

さぁ、新年度の始まりです。

今日は桜も散りはじめています。

季節が巡るように、変わることを恐れず、変化していかなければ、と思う今日この頃です。

 

 

人材・組織開発コンサルタント

後閑 徹

 

 

 

 

   

 

 


3.11 無力感を糧に

今年も被災自治体に仕事で伺います。

まだまだ厳しい状況の自治体職員、住民のいることを知っています。

その実態を質問でもなく、相談でもなく、語られる時、私は何と答えたら良いのか。

 

答える言葉をもたない私が感じる無力感。

 

ボランティアを通して、仕事を通じて感じ続けた無力感を糧に、被災地に向き合います。

まだまだ私は何ほどのこともしていない。

今の私に出来ることを考え、行動します。

 

 

復興庁 全国の避難者数 平成30年2月27日 

 

 

 


コラム「障害者雇用から多様性の受容を考える」

自治体の仕事を頂いている蟾埓マネジメント研究所HPに久しぶりのコラムを書きました。

 

コラム 『障害者雇用から多様性の受容を考える』

 

組織が社会的問題に取り組む際、「組織のメリットとなるように、如何に取り込んでいくか」という視点と、「私たちの責任として、当然のこととして行う」という姿勢では、大きな差が出てくるでしょう。

 

漠然とですが、障害者雇用やCSR部門の方々には、後者が多いような気がします。

 

私自身は職業柄、前者の見地から立論しますが、根底にある「私たちの責任」を忘れてはいけない、と考えています。なぜなら、「社会(組織)は決して私たちの外にあって私たちを拘束するものではなく、私たち自身が形作っているものである」、と考えているからです。

 

こんな青臭いことを書くこと自体、まだまだだな、ということですが。

 

 

それはそれとして傍らに置いておいて、コラム 『障害者雇用から多様性の受容を考える』 をご一読頂けますと幸いです。

 

 

人材・組織開発コンサルタント

後閑徹


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