集団浅慮の罠 / 「場」を考える

年末、お誘いを受けて久々に「参加者」としてダイアローグ・セッション(対話の場)に出席しました。テーマは「はたらく」。正直なところ、あまり気のりしないままの参加でした。

組織開発の手法でもあるファシリテーションは、集団浅慮(groupthink)を乗り越えるための手法でもあります。集団浅慮(groupthink)とは、個人で考えるより集団で考えた方が不合理であったり安易な決定が行われることを意味します。対話をするグループのメンバーが様々な理由で自分の意見を言えない、あるいは妥協的で考えが深まらないままの決定をするような場合がそれに当たります。

それを乗り越える手法のひとつがファシリテーションですが、なかなか上手くはいきません。知識のある人間が周囲のレベルに合わせてしまったり、周囲に気を遣い発言できなかったり、言葉にすることが苦手な方は対話の流れに入りそびれてしまうこともあります。

そうならないために「場作り」があります。今回、セッションに参加して「場」というものの構造を再度考える良い機会となりました(その意味で参加して良かったです。特に私が日頃、ともにファシリテーションを学び、実践するグループとは様々な点で大きな違いがあったのも興味深く振り返りました)。

私は当日のファシリテーターが対話の場に介入せず、かなりの時間を同じところを何度も堂々巡りさせていることに嫌気がさしていました。それがその日のイベント説明にあった「対話の中から『意味が立ち上がる』」ための仕掛けなのかと勘ぐったり、話を方向付けようと発言したりもしましたが、深まりそうになるとまた引き戻される、の繰り返しでした。

なぜ、その時、その進め方への違和感を言えなかったのか。それは参加者というよりもファシリテーターとしての視点があまりに強くもっていたことも原因のひとつでしょう。しかし、もうひとつ別の原因があるように思います。


その日のセッションを振り返っているとき、ふと集合表象という概念が思い浮かび、そこから集団の在り方に思いが至りました。

社会学においては「社会」(という集団)の捉え方には大きく2つの系統があります。
ー匆駝礁槝静把握:社会は個人を離れて存在せず、それは個人に還元される ex.ウェーバー
⊆匆饉尊瀟静把握:社会は個人を超越して存在し、個人を拘束する実在である ex.デュルケム

参加者がどのように「場」を考えているのかによりその「場」での発言は変わってくるでしょう。
〔礁槝世里茲Δ法崗譟廚鮗分たちが作り、自分たちが壊すこともできると考えているのか、⊆尊瀟世里茲Δ法崗譟廚聾朕佑鯲イ譟◆崗譟廚帽澗されると捉えるかで、その「場」での振る舞い方は大きく変わってきます。

ファシリテーションの場合には,鯡椹悗掘∋臆奪瓮鵐弌爾納得して議論を収斂させることが求められます。

しかし、実際の「場」は,らスタートし、△悵楾圓垢襪里任呂覆い任靴腓Δ。
自分たちで作ってきた「場」であればあるほど、その「場」を崩す(壊す・違和感の表明をする)ことは難しくなっていくのではないでしょうか。そして、自分の意思を押さえて「場」に合わせようとする。このことが集団浅慮へのはじめの1歩を踏み出していくことのもうひとつの原因であったように思います。

「場作り」は集団浅慮に陥らないために極めて重要ですが、ある程度時間を経て「場」が出来てからにおいてこそ、如何にその「場」を個人に還元させられるか=「参加メンバーが自らの手で場を変化させていくことができるとの実感をもたせるか」、の仕組みが必要であると痛感しました。「場作り」は最初のみでなく、その過程の中が重要である、と。

これが年末のセッションから私が経験から学んだもののひとつです。


異質なものに触れることで違和感を学びに変える。
とても楽しい経験でした。
今年も異質なものに開かれた自分で居ようと思います。


☆☆☆
新年明けましておめでとうございます。
皆さまにとって実り多く、意義深い1年となりますように。
今年は多くのチャレンジをする年とします。ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い致します。

後閑徹






 

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